J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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FILE007  
掛川誠 選手
生年月日 : 1973/05/23
身長/体重 : 191/83
ポジション : GK
経歴 : 寄居高-東海大-ベルマーレ平塚-ヴィッセル神戸

― 小学生時代(妻沼太田小)

サッカーを始めたのは小学校2年のときです。グラウンドでサッカー部の練習を見て、面白そうだなと思って入れてもらったんです。でも、僕、途中で野球もやったんですよ。地元に野球チームがあって、週1回、日曜日に練習があるんですけど、野球が面白くなって、そっちにちょっと気持ちがそれたときもありましたね。グローブとかつけてみたかったし、身長もあったので、4年生の途中くらいにサッカーに戻ってきてからは自分で志願してキーパーを始めました。でも、やってみたら痛いし、下のグラウンドは硬いし、ケガすれば血が出るじゃないですか。セービングの方法を教えてもらえるわけでもないし。ただ蹴っているのを取れと言われるだけで。それに、結構怒る監督だったので、ゴールキーパーは嫌だなと思って、やめたときもあったんです。小学校5年のときは、ディフェンスをやっていました。でも、代わりのキーパーがパッとしなくて、「やっぱり戻れ、おまえ」みたいな。(笑)

― 中学生時代(妻沼西中学校)

それで中学校に進んだんですが、やっぱり僕はフィールドをやりたかったんですよ。どうしても点取屋になりたくて、フォワードをやりたくなったんです。だから、練習の時にもフォワードをずっとやっていたんですけど、僕たちの世代にキーパーがいなかったんですね。やっぱり一つの世代に一人はキーパーがいないと駄目だという話になって。誰もキーパーは経験したことがないし、やるやつがいないというので、「やってくれないか」とみんなに言われて、またキーパーに戻ったんです。何かキーパーに戻される運命だったんですね。

― 高校への進学

高校ではもうサッカーをやめようと思ったんですよ。いろいろとやりたいこともあったから。農大三高というのがあって、そこに行こうとしていたんです。うちは農家だったし、親も行けと言うのでそのまま流されていたんですよね。そうしたら農大三高の試験の前日に寄居高校の先生が来たんです。前から「来ないか」って誘われていたんですけど、寄居高校は県大会、全国大会に行くレベルじゃなかったし、行くつもりはなかったんです。僕は、試験の前日まで近所のお兄さんに勉強を教えてもらっていたんですが、そこに親から「寄居高校の小林先生が来ているんだけど」って電話が来たんですね。寄居高校を受けてくれるまでは帰らないと言っているって。その粘りは深夜まで続いたんです。最初は「ええっ?」と思ったんですけど、やっぱり熱意も感じるし、うれしい部分もあるじゃないですか。「そんなに俺っていいのかなあ」とかって。結局、翌朝の4時くらいまで先生はいて、あとはもう、試験も面倒くさくなって、まあいいかな、みたいな感じになっちゃって(笑)。次の日、「熱が出て、どうしても行ける状態じゃない」と親が電話をしたんだけど、前代未聞だったらしいね。

― 高校生時代(寄居高校)

寄居高校の小林先生は読売クラブ出身の方だったので、サッカーの考えがとてもしっかりしていて、僕としては吸収するものばっかりでした。キーパーの練習は、1つ上に上手い先輩がいたんですけど、その人に一から教えてもらいながらやっていました。結局、選手権とかには出られませんでしたが、高校3年のときに埼玉県選抜に入れました。

― 大学への進学

東海大学にいけることになったのは、群馬のリーグ戦を高崎か前橋でやったときの前日練習に、僕が寄居から近かったからたまたま参加できたんですね。そこで練習とか見てもらってOKが出たみたいですね。あとは明治のセレクションも行って、2部だったらOKということになったんですけど、夜間は頭になかったので、東海大に進みました。

― 大学生時代(東海大学)

大学に入っても、焦る性格じゃなかったので、マイペースでやっていたんですよ。1年のときは全く出ていなかったんです。一つ上の先輩にうまいゴールキーパーがいて、僕は3番手だったんですが、その先輩が調子を崩している時にあった試合の2番手で出て、たまたまいいプレーが出来たんです。それを見ていた東海大の宇野監督が、その時ユニバーシアード日本代表の監督もやっていたんですが、それで目をつけてくれて、2年の途中で大学選抜に入れてくれたんですよ。93年にアメリカでユニバーシアード バッファロー大会があって、堀池さんという人がメインのキーパーだったんですけど、途中で一発レッドカードをもらっちゃって退場しちゃったんですよ。僕は、たまたまスパイクの裏のスタッドがなくて、ロッカーに取りに行こうとしていたらいきなり呼ばれて。「カケ、おまえ早く来い」「ええっ?」「退場したんだよ、早く出るぞ」って。猛スピードで走っていって、前半だったのでアップなしで入って、だけど3-0でアメリカに勝ったんですけどね。しかし、その時は焦りましたよ。代表に入るようになってからはチームでも安定してプレーできるようになって、95年も選ばれて、福岡大会で優勝できました。興津(大三)がかなりキレていて、得点王になって。みんなの意識も一つになっていましたよね。それには理由があって、そのとき初めてサッカーにメンタルトレーニングというのを取り入れたんですよね。教えてもらった基本は、気持ち、モチベーションをいつも高く持って、自分のできることはやり遂げようということでした。ミスをしても、ネガティブにならないで全部ポジティブシンキングでやろうと。みんなも「地元でやるわけだから勝たなきゃいけないだろう」と意識も高くなって、すごくまとまったチームでしたね。

ベルマーレから声がかかったのは4年生の最後のほうですね。ユニバーシアードが終わって帰ってきて、リーグ戦の途中ぐらいだったと思います。あとはヴィッセル神戸からもちょっと話があったんですが、そのときはまだJFLだったので、悩むこともなくベルマーレに行きました。

― プロになれた一番のポイントは?

その時その時に、自分のできることをしっかりやっていたと思うんです。そのレベルというのはいろいろ個人差があると思うんですけど、やっぱり今やるべきことは何なのかというのは意識していたので、じゃあ今日は筋トレをやろうかとか、みんなは先に帰っちゃったけど、軽くご飯を食べてからジムに行こう、ということを意識してやっていました。そうしたら道が開けたという感じですよね。今考えると、普段を意識していたから、そういった運もつかめたんじゃないかなと思います。


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

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