J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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FILE025  
鐵戸裕史 選手
生年月日 : 1982/09/28
身長/体重 : 168/63
ポジション : DF
経歴 : 熊本商高-佐賀大-佐賀楠葉クラブ

― 小学生時代(武岡小学校→広安小学校)

生まれは熊本だったんですが、小さい頃に鹿児島に引越しをしたんです。引越し先の鹿児島はサッカーが盛んだったので、幼稚園の時に父がクラブに入れてくれて、そこからサッカーを始めました。小学校に入って1、2年は、きっかけがなくてサッカーをしていませんでしたが、いつも遊んでもらっていた兄の友だちがスポーツ少年団でサッカーをやっていて、その人に影響を受けて、僕も少年団に入ることになったんです。チームはそこそこ強かったんですけど、監督がすごく厳しい方だったことを覚えています。
小学校5年生の時に熊本に帰ってきて、熊本でもすぐに少年団に入りました。なかなか強いチームで、ひとつ上の代は県大会で準優勝をしたくらいでした。でも、指導者は学年ごとに違って、僕の代の指導者の方があまりサッカーを知らない先生だったみたいで、そのためか僕らの代はあまり強くありませんでした。


― 中学生時代(益城中学校)

中学校でも僕の上の代は強かったんですが、僕の代は県大会に出られずに、郡の大会どまりでした。指導者の方は、熱心ないい指導者がいました。個人としては中学3年生の時にトレセンに入りました。レベルの差ってほどじゃないにしろ、みんな上手いなあ…ってことを実感しました。

― 高校への進学

トレセンで熊本商業と練習試合をしたんですが、そこで目をかけてもらったようで、熊本商業のコーチが「ウチに来いよ」って誘ってくれたんですね。僕が中学2年生の時に、熊本商業は高校選手権でベスト16まで行ったんです。大津もいいけど、熊本商業もいいなあ、と思って。それで推薦入試を受けて、熊本商業入ることになりました。


― 高校生時代(熊本商業高校)

1年生の選手権あたりからベンチに入れるようになり、2年生になってから試合に出られるようになりました。高校3年間では県でベスト4が最高でした。国体は3年生の時に候補までにはなったんですが、最終的なメンバーには入れませんでした。熊本商業のコーチをやっていた方がすごく熱血漢だったんですね。ミスをすると「こらーっ!」って怒られるんですよ。僕らとしても反発心があったんですけど、振り返ってみるとそういう指導はよかったなって思います。

当時は選手権にも出られなかったし、プロから声がかかることもありませんでした。だから、大学に進学しようと思った時に、推薦で行ける成績なんだから国立の大学に行きなさいって親から勧められて。僕は熊本の大学に行きたかったんですけど、県から出て一人暮らしもいいぞって言われて、推薦で佐賀大学を受けて、行くことになりました。

― 大学生時代(佐賀大学)

当時はもうすごかったんです。九州大学リーグの2部にいたんですけど、総部員数が18人。練習には10人来ていればいい方で、グラウンドは草ぼうぼうです。これにはかなり驚きました。でも、この頃は「プロになりたい」という気持ちよりは「サッカーが好きだ」という気持ちの方が強かったので、くじけずに(笑)、サッカー部で頑張ろうと思ったんですね。そうしたら、僕が入った年に新しい監督が来たんです。監督はそんなサッカー部の状況を見て、「お前らにサッカーのエッセンスを注入する!」と宣言したんです。一年365日の練習で、一緒のメニューはせずに、一日一日違う練習をして、ボールの蹴り方とか触り方を教えてくれるという指導方針になったんですね。それがすごく楽しくて。「ああ、サッカーって楽しいなあ。もっと高いレベルでやりたいなあ」って気持ちが蘇ってきたんです。監督は筑波大で風間八宏さんと同期だった方で、ブラジルに留学した経験があって、フットサルの日本代表だった方でした。
監督のおかげで、サッカー部の雰囲気も変わりました。18人の部員が30人くらいになり、練習にも出てくる選手が増え、紅白戦も出来るようになりました。(笑)チームの成績もよくなり、キャプテンになった4年の時に九州大学リーグ1部に昇格することが出来ました。

そんな経緯があって、4年生の時点で「プロになりたい」という気持ちが強くなったんです。だから、就職活動はせずに、セレクションを受けに行ったのですが、どこにも受かりませんでした。大学を卒業となれば、大学のチームには入れないから試合にも出られません。どうしようか、と思った時に、知り合いの方が佐賀楠葉クラブにいて、「試合をやっていた方がいいだろう」と誘ってくれたんです。

― 佐賀楠葉クラブ時代

まず、基本は大学の練習に参加させてもらい、その後に社会人の練習があるときには参加するというスタイルでサッカーに打ち込み、午前中から夕方まではバイトをしていました。1年目は広告代理店で事務的な仕事をやっていました。秋が過ぎて、セレクションの時期になったので、バイトは休みをいただいて、徳島と水戸と横浜FCと鳥栖と熊本と琉球のセレクションに行きました。このセレクションに参加するために、バイトしたお金を貯めていたんです。ですが、ものの見事に落ちてしまいました。

もう1年頑張ろうと思って練習に取り組んでいたんですが、ある時、チャンスが訪れました。僕は大学生時代から佐賀のキッズサッカーをやっていて、佐賀サッカー協会のキッズサッカーの委員長をやっている方に良くしていただいていました。その方の後輩に前鳥栖監督の高祖さんがいたんです。2年目の途中に、たまたま高祖さんが佐賀に帰っていらして、その時に紹介してもらえたんです。僕は履歴書を持っていって、「入れるところを探しているんですけれど、良かったらどこか紹介いただけないでしょうか」と話したところ、「そんなに頑張っているんだったら、あたってみてあげるよ」と言ってくれたんです。それで最初に話をしてくれたのがこの鳥栖でした。練習生として練習に参加させてもらえるようになりました。自分の良いところは運動量と泥臭くあきらめないプレーなので、それを前面に出してやっていたところ、目に止まって、アマチュア契約をしてもらいました。ただ、アマチュアなので、午前練習で軽めに終わったら、午後からバイトに行っていました。それでも足りなくて、セレクションのために貯めていたお金を切り崩しながらやっていました。11月に来期のプロ契約の提示があって。もう嬉しくて。すぐにハンコを押しちゃいました。(笑)

― プロになれた一番のポイントは?

サッカーが好きだったこと、プロになりたいという気持ちを持ち続けていたからだと思います。ですが、それには親を始めとして、周囲の方が僕を応援してくれたのが大きいです。自分が夢に向かって懸命にやっていたから、皆さんはそれを見てくれていたんだと思っています。


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

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