J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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FILE033  
阿部吉朗 選手
生年月日 : 1980/07/05
身長/体重 : 174/72
ポジション : FW
経歴 : 常総学院高-流通経済大-FC東京-大分トリニータ-FC東京

― 小学生時代(大阪市立大池小学校→つくば市立並木小学校)

サッカーボールを蹴り始めたのは幼稚園の頃からでしたが、本格的に始めたのは小学3年生の2学期につくば市に引っ越してからです。兄がサッカーを始めて、僕も一緒についていったんです。並木小の少年団は、僕の2、3歳上の代は強かったんですが、僕らの代はそんなに強くありませんでした。つくば市内では優勝したのですが、県大会には父母の方が登録をし忘れていけなかったんです。(笑)そんな学校でした。でも、筑波大の監督や大学生が教えに来てくれたりしたので、サッカーを学ぶためにはなかなか良かったです。週に1度しか練習はなかったんですが、先生は、「サッカーは私生活から現れるんだよ」「サッカーは生活の一部で、人生の一部でもあるんだよ」「紳士のスポーツなんだよ」と、生活面についても教えてくれたんですね。小学生の育成も兼ねたサッカースクールという感じでした。印象に残っているのは、とにかくサッカーを楽しむということと、声を出してコミュニケーションをとるということでした。小学校時代は背が大きかったのでセンターバックをやっていました。6年生から中盤になり、県南選抜に入れました。

― 中学生時代(つくば市立並木中学校)

もうひとつの小学校と一緒になるので、中学校はけっこう強くなるんです。二つ上の先輩は関東大会で優勝したり、全国大会でベスト8に入りました。実は、地元のクラブチームに行こうか、並木中に行こうか迷ったんです。でも、先輩が強かったので並木中に進みました。僕たちの代は県大会に出てもベスト8とかベスト16とか、それくらいのレベルで、そんなに強くないチームでした。地元のクラブチームは全国大会に出たので、ちょっと失敗したな、と思ったりしましたね。(笑)県選抜には中学2年で入りました。県選抜に入ったことで一番よかったのは、別の練習メニューを知れたことです。僕らの中学校は、学年ごとにチームが分かれていて、先生は3年生を教えるため、1年と2年はその年代のキャプテンが練習メニューを考えるんです。僕は自分の代のキャプテンだったのですが、メニューを作っても、練習について聞いてくれない人もいて。上手くなりたいから厳しい練習もするという人と、もっと楽しくやりたいって人が分かれるんです。「ゲームでいいよ」とか。選抜に入ったおかげで、新しい練習メニューも学べて、勉強も出来て。とてもよかったと思いました。一度、ヴェルディ・ジュニアユースのセレクションを受けに行ったんです。それで受かって、僕はすごく行きたかったんですが、やはり通えませんでしたから、断念しました。

― 高校への進学

先輩たちが帝京や桐蔭学園に行ったので、僕も行きたかったんです。憧れますからね。でも、「もっと現実を見ろ」と親が賛成してくれませんでした。そんな中、常総学院から話があって。常総学院って、当時はサッカー的に「えっ?」という学校だったんです。でも、ナイター設備があって、一人でも練習できる設備があって、家からもすごく近かったんです。チャイムが鳴ってから行っても間に合うくらいでした。(笑)トレーニングさえできれば、自分のレベルさえあがれば、どこでやっても同じだ、と考えた結果、常総学院に進学しました。


― 高校生時代(常総学院高校)

県南では強かったんですけど、県全体では強くありませんでした。最高でベスト4どまり。全国レベルの強さもありませんでした。チームとしては選手権出場という目標があり、個人としてはプロになるという目標がありました。それで、どうすればその目標に到達するか、と様々なことを考えました。当時強かった高校と比較すると、環境も違うし、教えられ方も違います。帝京や東福岡のトップの人たちは何時くらいまでボールを蹴っているんだろうな、とか考えるんです。そんな人たちと競えなければプロにはなれない。練習は質を伴っていないかもしれない。だったら量を多くしよう。自分でしっかりトレーニングをしてレベルアップしよう。やるしかない。そう考えて、家が近いこととナイター設備があることを利用して、夜遅くまで練習をしました。毎日、夜の10時半くらいに帰宅していましたね。通常練習が終わったあと、ロードって言って、4kmのコースがあるんですけど、それを2周、計8kmを自主的に走っていました。2年くらいまでは、つきあってくれる友だちがいたんです。その友だちも練習が厳しかったせいか、途中で違う道に行ってしまいました。(笑)それくらいやらなければ、プロにはなれないって思っていたんです。ただ、私学でしたから、たまに元Jのコーチなどが来てくれたんです。1年の時はプリマハム(水戸の前身)の中野監督(現流通経済大監督)が教えてくれていて、途中でプロ経験のある山崎さん(山崎真氏/現山形ジュニアユース庄内監督)や島根さん(島根聡一氏/現山形コーチ)も来てくれて。元Jの人が教えてくれるということでは、みんな真剣に取り組めたと思います。国体には3年の時に選ばれましたが、高校1年の時に1年生が5人くらい育成メンバーとして茨城県の国体メンバーの先輩たちに混ざって、ヨーロッパ遠征に行き、国際ユース大会というのに出たんです。それに選ばれたことが大きかったですね。まずオランダでスクールに参加して、ドイツの大会に出たんです。驚いたのが、ドイツの方たちの対応です。サッカー選手を見る目が日本と全然違うんです。僕らに対しても、サッカー選手として、尊重して対応くれるんです。サッカー選手って本当にすごいんだ、と思ったことが強く印象に残っています。また、試合でチームメイトが後ろからファウルを受けて骨折をしてしまったんです。激しいとは聞いていたけど、骨折までしちゃうんだ! と衝撃を受けました。

大学には、専修大学などの指定校推薦も考え、3年の時は勉強も頑張っていました。駒沢のセレクションにも行きました。巻とか深井と同期で、結局、枠がいっぱいで入れなくて。そんな中、流通経済大に入った中野さんから「お前はプロになりたいのか。それだったら流通経済大に来いよ」という話をいただいて。その当時は流経は2部にあがったばかりで、そんなに強くなかったんですが、プロになれるという言葉があったことで、最終的には親を説得して、流経に行くことを決めました。

― 高校生時代(流通経済大学)

1年の時には、先輩がタンクトップに短パン、ビーチサンダルという格好で筑波大との練習試合に出かけ、7-0で負けたりしていました。「なんだ、あの学校は。もう2度と練習試合を組まない」なんて言われたりしていました。中野監督の力で、継続して試合はできましたが、そんな先輩たちを反面教師として、みんなで一丸となって頑張りました。おかげで筑波との差は7-0から2-0になり、1-0になり、2-1とかで勝てるようになり、最終的には筑波を倒して、天皇杯に出られるまでになりました。寮は4人部屋で狭かったけど、バカなこともやって、とても楽しかった。最後まで寮にいた選手は、最後まで頑張ったヤツですし、みんな身内みたいに感じてしまうんですよね。僕たちの代も最初はいっぱいいたのに、最後は8人くらいになっちゃったんですよ。というのも、朝練があって、朝から毎日1500mくらい走るんですよ。冬なんてまだ霜柱が浮いている寒い朝に走るんです。1500mを何分で入れないとBチーム行きだったので、みんな手を抜けなくて。それが嫌でやめてしまった選手が半分以上でした。僕自身は、3年生になった時に「みんなで頑張ろう」と引っ張るようになった時くらいから変わりました。4年生で、関東選抜のBに選ばれたんです。その関東選抜Bの監督が中野監督で、流経から入ったのが僕と塩田(FC東京)と栗澤(FC東京)だったので、まあ、監督が選んでくれたんだろうな、って思いながら参加しました。でも、この中で得点をあげて、優勝すればプロになれるかなって思ってやっていたら、得点を一番多く取って勝ったんですね。その時にFC東京で強化をやっていた大熊さんが見ていてくれたんです。練習に参加をしに来ないか、って言ってくれました。そして参加した練習試合で4点取ったらすぐに内定をもらえて。その時、フォワードが足りなかったのか、早く合流してほしいと言われたのですが、とりあえず大学リーグを最後までやりたかったので、12月の天皇杯から合流しました。

― プロになれた一番のポイントは?

周りにいてくれた人たちのお陰だということが第一ですけど、もうひとつあるとすれば、自分がどうなりたいかというちゃんとしたビジョンがあったことです。目標があったから、集中できたし、他のことを犠牲に出来たというか。他の人たちはみんな遊んでいて、いいなあ、楽しそうだな、僕も遊びたいな、と横目で見ながらも、プロになるためには我慢我慢、と頑張れたことがよかったと思っています。


【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

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