
― 小学生時代(西宮市少年サッカークラブ)
小学校1年生からサッカーを始めました。本当は野球をやりたかったんですけど、近くに野球をできるところがなく、サッカーをできるところがあったものですから、代わりにサッカーをすることになりました。西宮市少年サッカークラブでは、サッカー経験がある指導者が教えてくれる、個人技主体のチームでした。持ったら、とりあえずドリブルをしろ、って感じで。コーンドリブルや1対1の練習をよくしていて、パスの練習とかはあまりしていませんでした。西宮市内では1番か2番で、県大会でもベスト8くらいには入るような強いチームでした。4年生から6年生まで県大会に出て、全部ベスト8くらいには入っていました。6年生の時にヤンマー(現セレッソ大阪)のセレクションを受けたんです。そうしたら受かったんですが、父が名古屋に転勤になってしまって。そうしたら、ヤンマーの方がグランパスのJrユースを紹介してくれて、名古屋グランパスエイトJrユースに加入することになりました。
― 中学生時代(名古屋グランパスエイトJrユース)
引っ越し先は名古屋市だったのですが、練習施設は三好ケ丘だったので、すごく遠かったです。練習が終わって家に帰ると10時半から11時の間。そのころ、母は病気をしていたのですが、夜遅く帰っても食事を作って待っていてくれました。その母が1年の終わりごろに亡くなってしまい、精神的にも辛い時期だったんですが、サッカーがあったからなんとかやってこれたという部分があります。グランパスエイトJrユース自体でも辛い部分がありました。兵庫県であれば、県トレに入っていましたし、ちやほやされていて、何をやっても許されていたのですが、名古屋では誰も僕のプレーを知りませんし、いつも気を使っていて、自分を見せることはなかなかできなかったんですね。本来であればドリブルをしかけるところを、パスを出してみたりして。みんなは仲が良くて、僕は部外者的なこともありましたですし。なかなか認めてもらえないという部分はありました。監督はトヨタでやっていた菅野さんというとても上手い方で、エジソンという外国人コーチもいたし、指導はかなり高いレベルのものでした。チーム自体は出来たばかりで、僕は1期生だったんです。なので、1年生、2年生のころは対戦相手がほとんど3年生だったので、まったく勝てなくて。3年生になったら県内ではなんとか勝てるようになったんですけど、東海くらいまでの範囲になるとまた勝てなくなる、そんなチームでした。
― 高校への進学
僕は選手権に出たくて高校に行きたかったんですけど、親から反対されたんです。そこで頑張ればプロに上がれるということもあったんでしょうし、当時のジュニアユースは遠征費や合宿費がかからなかったんですね。僕はユースからは寮費とかなにもかからないという状態でもありましたので、そんな費用的な面もあったんだと思います。母親がいない分、寮できちんとした食事がとれるということも考えてくれたんだと思います。
― 高校生時代(名古屋グランパスエイトユース)
最初はBチームで、2年になったらスタメンで出られるようになりました。グランパスのサテライトにも出られるようになったんです。それには理由があって、1年生の時にぐっと身長が伸びたんです。それでスピードもついて、50mもかなり速くなったんですね。おかげでプレースタイルが一気に変わりました。前へ蹴れば、すべて抜けるようになったんです。それはサテライトでも通用したんですね。そこで調子に乗っちゃったんです。門限を破り、一度寮を出されてしまったんです。その後、親と一緒にあやまりに言って戻してもらったんですけど、それ以降、サテライトには呼ばれることはなくなってしまいました。当時戦った相手で印象が強いのが上野さん(元横浜FM)ですね。すごく上手かった印象があります。サテライトにはたまに中西哲生さんが来たりしましたけど、いつもいたのは古賀さん(柏)とか、山崎光太郎さん(元甲府)とか、矢部次郎さん(元鳥栖)とか、佐藤悠介さん(栃木)とかがいました。悠介さんはサテライトのキングでしたね。
3年生になってすぐチームの人に呼ばれて、トップには上がれないという説明を受けました。だったら勉強しなくちゃ…って、そこでグランパスをやめて、サッカーも一時休んで、勉強をして普通に順天堂大を受験することにしました。とにかく教員免許が欲しかったんです。鹿屋体育大学も受かりました。国立だったので、父は鹿屋に行ったらどうだと勧めたんですが、サッカーが強いので、ここはわがままを通させてもらって順天堂大に入りました。
― 大学生時代(順天堂大学)
順天堂大は学部関係なしに1年生全員が寮に入るんです。学生がそんなに多くないので、みんな仲が良くて、すごく楽しかったです。ただ普通入学で入ったので、サッカー部では5軍からでした。上には早川さん(横浜FC)や迫井さん(元FC東京)がいて。けっこう強いチームでしたので、上に上がるのは大変でした。でも、僕自身は楽しかったんです。下だと自分の好きにプレーできたから。(笑)1軍に上がったのは、2年生の最初でした。そういえば青葉(元徳島)も5軍で一緒だったんですよ。1軍にあがったのは青葉の方が少し早かったですが。僕はスピード重視のスーパーサブでした。監督は個人の特性を生かして自由にやらせてくれる人だったんですが、3年生になってから監督が代わって、協調性を重視する監督になったんです。僕とはあまり合わなくて、部をやめなくてはならないようになってしまいました。4年生の頃は一度もサッカーをすることができませんでした。
プロを目指したのは、ひとつのけじめでした。無理だろうという気持ちはありました。でも、ここまでサッカーを続けてきたのだから、一度トライしてみて、ダメだったらサッカーをあきらめようということで、青葉と一緒に甲府のセレクションを受けました。一次は200人くらいいました。二次では大学で名が通っている選手が加わって。三次にはJ経験者も入ってきて。緊張もありましたけど、久しぶりにみんなとサッカーが出来て、すごく楽しかったんです。その楽しさがいい方向に進んだんだと思います。大木監督が見てくれて、僕と青葉と大野と横関と林の5人が残りました。とにかく嬉しかったです。ラッキーでもありました。一応、企業の内定ももらっていたので、どうやって断ろうか…と考えましたが、悩むことはなく甲府に入ることを決めました。
― プロになれた一番のポイントは?
結局はあきらめないことだと思うんです。やりたいという思いを、どれだけ長く持てたかということだと思うんです。普通、やめてしまったり、区切りをつけてしまう人がいると思うんですが、それを持ちつつということが大きかったんだと思います。