PROFILE
08.2.22UPDATE

― 小学生時代(高槻市日吉台小学校少年団→船橋市宮野小学校少年団)
サッカーを始めたのは小学校1年生です。兄がサッカーをやっていたことと、1年生の時にJリーグが開幕したことに影響を受けて、サッカーを始めました。少年団はあまり強くなくて、試合をすると負けてしまうようなチームでした。兄の三つ上くらい上に、西紀寛さん(磐田)がいたんです。父親の転勤で、3年生の時に千葉の船橋市に引っ越すんですが、西さんが市立船橋に入るというので、西さんが1年生の時だけ家に下宿していたんですよ。すごく仲良くしてもらって。サッカーも一緒にやったりしてもらっていたんです。宮野小学校は地域ではなかなか強い小学校でした。そのおかげもあって、6年生では船橋市選抜の船橋FCに入れました。

― 中学生時代(ウイングスSS習志野)
FC東京のセレクションには行ったんですけど、最終まで行って落ちてしまったんです。中学校のサッカー部はそんなに強くなかったので、どうしようかな…と考えていたところ、船橋FC時代に仲が良かった選手が習志野クラブに行くという話を聞いて、自分も練習に行ってみようかな、と練習に行ってみたら、みんな上手いし楽しかったんです。それだったら…と習志野クラブに入ることにしました。最初は人数が少ないクラブチームだったんですけど、徐々に人数が増えていって、それでちゃんとした宮本さんという指導者を連れてきてくれたんですね。プロになってからも話を聞くような、いいコーチだったんです。宮本さんにしっかりと教わりました。3年生の時にヴェルディの提携チームとなり、ウイングスSS習志野になりました。ヴェルディの傘下になったと言っても、ユニフォームがヴェルディカラーになっただけで(笑)、指導者の方が来てくれるようなことはありませんでした。年に何回か、ヴェルディ傘下のチームで選抜チームを作って、読売ランドで練習したりしました。チーム自体はなかなか強かったんですが、県大会優勝とかはありませんでしたね。中学時代はとにかく楽しまなくちゃだめだから、楽しんでやらないと伸びないと言われ、とにかく楽しんでサッカーをやっていました。

― 高校への進学
市立船橋と修徳高校のセレクションに行ったんですけど、市船は落ちてしまったんです。落ちた選手が普通受験で入っていっても、レギュラーを取るのは難しいという噂もあったんです。修徳高校は兄が行っていた高校で、兄が3年生の時に選手権に出場したんですね。東京は2校出場だし、市船に普通で入るよりは選手権に出られる可能性もあるだろうと思いましたし、修徳のセレクションにも受かったので、修徳高校に進学しました。

― 高校生時代(修徳高校)
修徳はすごく厳しかったです。めちゃ体育会系でした。上下関係も厳しくて。兄からある程度聞いていたので覚悟はしていたつもりだったんですけど、けっこうきつかったですね。それに、グラウンドが遠いんです。柏市にあるんですけど、100人いる部員の中からトップの40人に選ばれると、授業が終わってから青砥からバスで柏市のグラウンドまで行って練習をするんです。練習が終わった後、柏でおろしてもらえるんですけど、定期は学校のある青砥と船橋だったので、学校まで戻ってから夜の10時ごろ帰宅していました。翌朝も朝練が7時くらいからあるし、通勤ラッシュの時間なので、各駅停車に乗るため、家を5時半とか6時に出るんです。そういうのが辛かったですね。トップ40人以外の60人は学校に残って練習をするんです。1週間単位で見直しがあって、トップに上がったり、戻ったりするような仕組みになっていました。僕自身は1年生の後半からトップチームに入りました。それから走りはすごかったですよ。練習中にみんなの気持ちが浮ついていたら、ダッシュさせられますし。インターハイとかで負けると、市川マラソン…略して市マラというのをやるんです。およそ16kmのコースです。1時間10分くらいで走るんです。遅いと怒られて…。それに自分たちはやっていないんですけど、カシマラというのがあって、柏の練習場までおよそ30km走ってから練習をするという、考えただけでも恐ろしいものもありました。(笑)だからけっこう辞めるんですよね。1年生の時に60人くらいいたんですけど、3年生の時には半分くらいになっていました。大会としては、最高で都でベスト4で、一度も全国大会に出られませんでした。3年の選手権は原田(原田欽庸/水戸)のいる成立学園に準決勝で負けちゃったんです。国体には3年生の時に選ばれて、梶山(FC東京)とか李(柏)とか関口(仙台)がいるチームでした。梶山様ってくらいに梶山がキングで(笑)、預けておけばボールを取られるようなことはありませんでした。ベスト8まで行って、青山(広島)や苔口(千葉)のいた岡山に負けました。でも、この国体で全国との距離が測れたというか、自分の足りない所と、ここは出来るんじゃないかというところがわかりました。ボールを持った時に、早めに潰されてしまったので、もうちょっと判断を早くしなくちゃいけないなと思ったり。逆に取りに行く時には、わりと簡単に取れるんだな、ということがわかりました。

修徳の監督と前田さん(前水戸監督)が知り合いで、自分と真行寺ともう一人で練習参加をしたんです。闘莉王さん(浦和)がいて、練習中からずっと怒鳴っていて、怖かったです。(笑)でも高さや強さを見ていると、全然違うので、これは勉強になるなって思っていたところ、前田さんが面倒を見てくれると修徳の監督に伝えてくれたんですね。実は大学に行くことにも少し迷ったんです。駒沢大学のセレクションは落ちたんですが、静岡産業大学には入れることになったんですね。その頃の水戸は練習場も決まっておらず、寮とかもすごくて、環境も良いとは言えないものでした。だから、大学進学との間でものすごく迷いました。最終的に決め手になったのは兄の言葉です。「俺、迷っているんだよ…」って言ったら「やってみればいいじゃん。ダメならダメで、男なんだし、なんとでもなるよ。俺の高校卒業時にそんな話が来ていたら、俺は間違いなく行ったよ」って言ってくれて。よし、失敗してもいい。一度だけの人生なんだから、やってみよう。そう思って、入団することを決意しました。

― プロになれた一番のポイントは?
修徳時代にいろいろな厳しさに耐えられるような忍耐力があったからだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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