PROFILE
08.2.29 UPDATE

― 小学生時代(長小学校少年団)
4年生から少年団に入りました。きっかけは父がサッカーをしていたことと、それまで父としかサッカーをしていなかったので、大勢でサッカーをしたかったことですね。入った小学校だけでは少年団が出来なかったので、近隣の3つの小学校の合同少年団でした。なかなか実力のある少年団で、地域では優勝もしていたし、県内でも3位に入るくらいでした。最高で5年生の時に県2位まで行きました。指導者の方は、仲間の大切さを教えてくれた、熱い気持ちの方でした。個人的には東信地区の選抜には選ばれていましたが、県選抜には選ばれていませんでした。

― 中学生時代(真田中学校)
指導者がいない中学校だったんですね。だから少年団の監督が教えに来てくれたり、自分たちで練習メニューを考えて、練習をしていました。でも、地区予選2回戦負けしてしまうくらいで、チームの成績は振るいませんでした。(笑)中学時代はチーム事情により、いろいろなポジションになりました。中盤が多かったですね。

― 高校への進学
住んでいたあたりでは進学校でサッカーが強く、姉が通っていて身近な上田高校に行きたいと思ったんですね。最初は全然学力が足りておらず、先生にも下の学校に行けって言われていたんです。塾に行っても点が伸びないし。最後のテストで出願するところを決めようということになったんですが、そこでいい点が取れてしまって。それで試験を受けたら運よく受かってしまったので(笑)、進学することになりました。

― 高校生時代(上田高校)
上手い先輩もいましたし、チームとしてはまとまっていたんですが、高校にも指導者がいませんでした。キャプテンがメニューを組んで練習をしていました。試合には1年の秋の新人戦から絡めるようになりました。高校に入るにあたって、自分のやりたいポジションをやらなくちゃダメだなって思ったんですね。点を取りたい。それでフォワード一本で勝負しました。大会としては2年の新人戦が一番充実していて、県で3位になりました。3年生からOBが顧問として入ってきたので、ようやく充実してきました。まあ、僕と同じ代の選手なんかは、顧問が入って練習メニューが厳しくなり、タイム制限がある走りも多くなったので、嫌になってやめてしまった選手もいましたけど。国体は2年の新人戦が評価されて候補までは入れたのですが、3年のインターハイ予選でコロッと負けてしまったので、選出はされませんでした。

最初から3年生の選手権まで残るつもりだったんです。国体から落ちたのを見返したかったですし、そこで成績を残して推薦で大学に行こうと思っていたんです。さらには全国大会に出られれば、顔を売って、そのままJというものすごい構想もあって。(笑)当時は選手権が終わってからでもJに行けると思っていたんですね。でも選手権予選ベスト16であっさり終わってしまって。10月のことでした。(笑)早くも夢破れてしまったので、これは大学に行かなきゃなって思って、教員になりたいという希望とサッカーをしたいという希望の両方を適えられる筑波大学を狙って、受験勉強をスタートさせました。ですが、センター試験の段階で足切りになって、この時点であきらめて浪人することを決意しました。ただ、身体を動かしたいという気持ちで、顧問の先生が在籍している北信越リーグの上田ジェンシャンに入りながら、予備校に通うことにしました。

― 予備校時代(上田ジェンシャン)
予備校に練習着を持って通い、授業が終わったら上田ジェンシャンでサッカーをしていました。練習は週4回あったんですが、さすがにそんなに行っていると親に怒られるので、平日二日練習に参加して、週末の試合に出させてもらっていました。実際にボールが蹴りたくてしょうがなかったので、うまく受験勉強と両立できました。やはり社会人リーグだけあって身体の大きさが違いましたし、教えてくれる指導者の方もいたので、すごく役に立ったと思っています。

センター試験で前期は筑波にしたんですが、後期は絶対に通るところにしなくちゃと思ったら、選択していた教科で考えると、山形大か弘前大しかなかったんですね。それだったら、モンテディオがある山形にしよう。もしかすると、何か縁があるかも知れない。そう思って、山形大学を志望したんです。

― 大学生時代(山形大学)
最初、サッカー部に入るか、山形の社会人リーグのチームに入るか、少し考えたんです。でも、知り合いがいるわけでもないですし、知らない土地の社会人リーグを探すよりは、まず部活に入ろうと思い、山形大のサッカー部に入部しました。そうしたら、サッカー部の顧問の先生がモンテディオと繋がりのある先生だったんです。現在、筑波大学の総監督をしている浅井武先生です。それで、1年生の夏に「俺が話をつけてやるから、モンテディオに練習に行ってこい」と一週間、モンテディオの練習に参加させてもらいました。全く違う環境で、びっくりしているうちに一週間が終わってしまいました。パスも判断も速いですし、当たりも強いんです。高校3年の時の野望は、あまりにも無謀だったんだな、と認識できました。(笑)特に佐藤悠介さん(現栃木)や大島さん(現横浜FM)の印象が強く残っています。でも、この経験がプラスの刺激になりました。今まで縁のなかったJの世界に近づけたんだ。自分はまだ大学生で3年間あるから、その間で伸ばすんだ、という認識を持つようになって。走り込みも足りない。筋力もつけなくちゃいけない。ひたすら練習に励むようになりました。大学チームは東北大学リーグ2部だったんですけど、遠征費は自分持ちだったので、昇格がかかると「どうする? 一部になると出費が増えるし、土日もなくなるぞ?」というような発言が出るチームでした。モンテディオの練習には2年生の時にも行きました。1年の時は当たりに飛ばされていましたけど、今度は自分からぶつかって行けました。…というよりは、ぶつかって行こうという意識もあったんですね。1年でそんな意識の変化がありました。モンテディオでは、今、ベガルタにいる手倉森浩さんにすごく良くしてもらいました。練習後にボールを蹴ってもらったりして。いろいろ指導してもらいましたね。「十分見たから、もう来なくていいよ」って言われるくらい。(笑)そんなことが自信になったのか、2年と3年の時には東北選抜に選ばれ、デンソーカップにも出場することができました。

モンテディオには4年生の秋に3日間練習に参加しました。紅白戦で得点して。これで終わったんだ…と思っていたら、もう少し見たいからあと1週間来てくれ、とすぐに電話が来て。その途中で、強化指定選手にしてもらい、2か月間、学校にも行かずに練習に参加しました。この2か月間は大きかったです。筋トレもフィジカルコーチに見てもらいながら取り組んだので、より実戦的なトレーニングができました。順調に行っていたのですが、11月末に「残念だけど、契約できない」と言われたんです。どこかで「このまま契約してもらえるだろう」と思っていたので、頭が真っ白になってしまいました。モンテディオの強化担当の方から、鳥栖と水戸と佐川印刷のセレクションに推薦してもらって、卒業旅行を兼ねて受けに行きました。鳥栖にまず飛んでセレクションを受けて一次で落とされたので、京都に向かって佐川印刷のセレクションを受けたんです。佐川印刷からはいい返事をもらえました。それから水戸のセレクションに行きました。行先がひとつあったので安心感があったんですね。自分としては気持ちに余裕を持って取り組めたんです。そうしたらクリスマスの日に、着信があったんです。契約をしてほしいという連絡でした。佐川印刷は正社員採用で、給料もボーナスも良かったですし、保障もついていました。迷いました。そこで手倉森さんに連絡をとり「なにかアドバイスはないでしょうか」と聞いてみました。そうしたら「上から下へ落ちるのは簡単だ。でも下から上に上がるのは、そんなに簡単なことではないぞ。JとJFLの差は確実にある。お前の人生、いつ終わるのかわからないんだし、挑戦する機会はそんなにないぞ」というアドバイスをいただきました。よし、やってやろう。水戸でJに挑戦することを決めました。

― プロになれた一番のポイントは?
人とのつながりがすごく重要でした。浅井先生もそうですし、選抜の監督もそうですし、山形の強化の方もそうですし、手倉森さんもそうです。それが一番大きかったんだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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