― 小学生時代(吉島サッカースポーツ少年団)
サッカーを始めたのは2年生からです。きっかけは三歳上の兄がやっていたからです。吉島サッカースポーツ少年団は同級生のお父さんが監督をしている少年団で、サッカーを楽しむことに重点を置いてやっていた少年団でした。監督はテクニック重視というか、魅せるプレーというか「サッカーってこういうものなんだ」って自分の中にある人だったんです。――サッカーは楽しく。楽しくなくちゃ続かない――監督はそういう考えを持っていたんだと思います。トヨタカップも見に連れて行ってもらったんですよ。監督がチケットを取ってくれて、みんなで一緒に行ったんです。フリットとファンバステンとライカールトがいたミランとパラグアイのオリンピアの試合とか。レッドスターとチリのコロコロとか。その時にフリットのプレーを見て「すごい!」と思って、世界のサッカーを見るようになりました。ジャンルカ・トト・富樫さんのやっていたWOWOWのセリエAとか見ていましたね。世界のサッカーを見て、自分ではテクニックを磨いていました。チームは強くて、県では一番でしたね。北信越大会にも行きました。冬には雪があるので、練習ができないため、サロンフットボールの全国大会に出て、優勝したりしました。個人としては北信越選抜に入っていました。全国の地域選抜が集まる大会に出て、市川(清水)や池田学(元湘南)や平松(前清水)と試合をして。みんな上手くてかなり刺激を受けましたね。なので、当時から「富山から出ないとだめだな」と思っていました。
― 中学生時代(FCひがし)
中学校の部活では満足できないと思っていたし、中学に上がる前から「レベルの高いところでやりたい」と監督に言っていたんです。そうしたところ、大会の度に会っていた富山県サッカー協会の方が、富山で一番有名なFCひがしの代表をやっていて、だったらウチに来るか、ということで誘ってくれました。家から電車で魚津駅まで20分、そこから電車で富山駅まで30分、そこからまた自転車に乗って30分。片道1時間強の距離を毎日通っていました。でも、行くだけの価値があるチームでした。FCひがしの指導者も「サッカーをまず楽しむこと」が基本理念にあり、テクニックを重視した指導をしてくれました。組織ではなく、個を伸ばす。その意識が強かったですね。それが自分にあっていたし、だから遠くとも続いたんだと思います。当時、白馬でやっていたクラブユース選手権にも毎年出ました。予選突破してフリューゲルスとかと戦いました。その時一番強かったのはエスパのジュニアユースですね。市川、平松、和田雄三(元甲府)、森勇介(川崎)、高林佑樹(TDK)とか。この頃から静岡を強く意識し始めました。中学時代も北信越トレセンに入っていました。
― 高校への進学
富山では冬に練習試合が出来ないから、関東によく遠征していたんです。静岡に行った時に泊まったのが日本閣というところだったんですけど、ここに清水商業の選手が下宿していたんです。日本閣のおじさんが、僕らが出ていた練習試合を見に来てくれていたんですね。この方が清水では有名な人で、それまでも僕や監督から静岡に来たいということを聞いていたこともあって「お前、変わったものを持っているから、やりたいんだったらウチで預かるぞ。やる気があるんだったら、一度、清商の練習に参加してみないか」と言ってくれたんです。それで3年生の夏に清商の練習に参加したんですね。その時、初めて小野さんと会ったんです。それもパス練習を組んでやったんですよ。それまで、僕は小野さんのことを知らなかったんですよ。やってみたら「すげー!」って衝撃的なくらいスーパーだったんです。それでここに入りたいって思っていたら、監督も来ないかって言ってくれたんですね。それで清商に進学することになりました。
― 高校生時代(清水商業高校)
清商に入ったらまず上下関係がきつかったです。(笑)それまで部活を経験していませんでしたからね。それに朝練という、中学ではやったことがないことも体験して。走りもきつかったんですよ。山を走りましたからね。船越公園というところがあって、200mくらいある階段を上まで上がって降りてきてから、学校が始まるギリギリの時間まで紅白戦をやるんです。とにかくきつかったです。上手い選手もたくさんいて、最初は試合に出られる気はしなかったんですね。レベルが違いすぎたし。でも自分にはどこか通用する部分があるということもわかっていたので頑張って練習をしました。試合に絡み始めたのは2年の途中で、3年からは頭から出られるようになりました。ただ、清商時代には、自分の持っている自信を失いかけたんです。監督は指導…というより、考えさせようとしていたんですね。でも、考えても、考えてもわからないから聞きに行っても、また「考えろ」と言われてしまうので、どうしていいかわからなくて、壁にぶつかってしまって。その時にコーチとして李さん(李国秀さん/元V川崎総監督)というフィーリングが同じ人が来て「サッカーはこうだよ」と教えてくれたので、吹っ切れたんです。とにかく強烈だったんですよね。「お前のやっているのは蹴球だよ」ってボロクソでしたよ。小野さんや平さん(平川選手/浦和)もボロクソに言われていました。そう言えば、勇介のいた清水東が選手権で負けていたから、部活ができなかったので、勇介は清水東から清商へ練習をしに来ていたりしたんですよ。普通、ありえないと思うんですけど、李さんは「そんなの関係ないよ。ここは学校じゃないんだ。サッカーをするところだから」って、学校でやっているのにそんなことを言っていました。(笑)それでも、戸田さん(広島)とかレベルの高い選手を学校に連れてきてくれたし、いい刺激になりましたね。
高校でプロから誘いがなかったから、もうサッカーをすっぱりやめようと思ったんです。そうしたら、李さんと一緒に来ていた、中京大中京でサッカーを教えている道家さんって方から、「サッカーをやめずに、もう一度大学でチャレンジしてみないか」って話があったんです。特待生扱いという条件もいただいて。それで「もういちど大学でサッカーをやらせてほしい」と、親にお願いをして、行かせてもらうことになりました。
― 大学生時代 (中京大学)
大学には山岸さん(浦和)や名古屋をアウトになって中京大に来た光太郎くん(山崎光太郎選手/元甲府)がいましたが、やはり物足りない部分がありました。でも、グランパスでプレーしていたコーチの沢入さん(沢入重雄さん/元名古屋/現中京大監督)からトップレベルの感覚を教えてもらったり、世界でサッカーを見てきた慈夢さん(上田慈夢さん/元名古屋TD/現京都ラランジャ監督)もコーチとして入ってきたので、なんとか意識を高く持つことができました。そういう人たちに出会えたので、自分の意識をしっかり持てたと思います。個人的にもいろいろと意見を言ってもらえたんですよね。プロという話も、2年生の時に「お前、どうしたいんだ?」って聞かれて「行きたいです」と答えたら「じゃあ、ここでもしっかりやらなくちゃな」って言われて。それを信じてやっていました。特に僕は線が細かったから、あたりに負けないようにフィジカル的なことをかなりやりましたね。筋トレは、練習前にも、練習後にもやりました。あとフリーキックの練習もしていました。2年生の時に中部信越地区の大学選抜に入ったんです。その時に関東や関西の選抜の選手たちと会ったんですね。それまで、大学をなめていたところがあったんです。大学に来るくらいだから、あんまりレベル高くないんじゃないかって思っていたら、巻(巻誠一郎/千葉)とか深井(深井正樹/名古屋)とか羽生さん(羽生直剛/FC東京)とかがいて。やっぱり、高校の時と目線が違って、フィジカルで突出していた人たちがいたんですよね。テクニックではなく、強さでの刺激を受けたんです。やっぱり強くならなくちゃいけないって。技術を生かすためにも、強くならなくちゃ、という意識を強く持つようになりました。
進路を考えて、プロの練習に参加したかったんですが、グランパスには行けなくて、3年生の終わりにジェフの宮崎合宿に行ったんです。ゲームはやらなかったんですけど、練習だけでは「なんとかやれそうだな」という感触はあったんですね。そうしたら「面白いものを持っているから、1年間追って行くから」って言ってもらえて。4年の冬に「練習生契約で入らないか」という話をもらったんです。最初は嫌だったんです。それで親とぶつかりました。親は「給料がいくらであっても、プロになれるチャンスは人生に何度もあるわけではない。なれる環境があるのであればやってみろ」と言ってくれて。「誰かも練習生から這い上がっているんだぞ」とかも言われて。(笑)「やってだめなら、その時、もう一度考えろ」その考えに従って、プロ入りを決めました。
― プロになれた一番のポイントは?
メンタルだと思います。あきらめられない自分があって、「プロになりたい」という気持ちをずっと持ち続けることができたからだと思います。








