PROFILE
08.3.28 UPDATE

― 小学生時代(あざみ野FC→ヴェルディジュニア)
小学校1年の時にあざみ野FCという地元の少年団に入りました。きっかけは友だちが入っているから、僕も一緒に入ろうかなと思ったことでした。ここはいわゆる普通のサッカー少年団で、楽しくゲームをするというのが日常の練習でした。転機はヴェルディジュニアのセレクションに合格したことですね。4年生の時にセレクションを受けたら帽子がもらえる…ということで、セレクションを受けに行ったんです。すごく軽い気持ちだったんです。だいいち、みんなサッカーのウエアを着ているのに、自分だけ私服で行ったくらいだったんですから。1000人を超える子どもが来ていたんですが、どうも僕が目立ったらしくて、僕ともう一人の二人だけが合格しました。チームではそこそこ出来てはいましたが、まさかヴェルディに受かるなんて思ってもみませんでした。最初の監督は浜口さんという方で、練習内容はゲームばかりでしたから、毎日行くのが楽しくて楽しくて仕方がありませんでしたね。そう言えば、面白いことに、僕は最初スイーパーとしてセレクションに受かっていたんですよ。でもコーチの方が変わっていくにつれて、どんどんポジションは前の方に移っていきました。次のコーチは小川さんという監督で、この方のテクニックが上手くて上手くて。サッカー教室でめちゃくちゃ人気が出るようなコーチ…ってわかりますよね? 僕たちも教えてもらうというより、プレーを見て、真似て、技術を高めていきました。当時ヴェルディジュニアは強かったですよ。同期はかなりプロになっていますよ。菅野(柏)、根占(横浜FC)、田村(仙台)、保谷(元ヴィッセル)、阿部(柏)とか。当時は一緒にセレクションに受かったヤコウくんという選手がめちゃくちゃ上手くて。一番目立っていました。ヤコウくんは中学でやめちゃいましたね。大会としてはいろいろと出ていたと思います。成績は…うーん、記憶にありませんねえ…ほとんど負けたことがないってことくらいでしょうか。トレセンにも行ったことがあるように思いますが、ヴェルディのレベルが高すぎたので、トレセンの記憶がまったくありません。うのにも出場して、最優秀選手をとったこともあります。

― 中学生時代(ヴェルディジュニアユース)
ジュニアユースにはすんなり上がれて、今度は菅原さんが監督になりました。ジュニアユースに上がっても練習は技術練習が中心でしたね。だから、フィジカルなんて言葉は知りませんでした。どの監督になっても、ずっと自由にやっていいって教わりました。クラブジュニアユースなどはひとつ上の年代に入って出ましたけど、あんまり記憶にありませんね。ジュニアユースでもたくさん試合はしましたが、負けた記憶があまりないので、試合のこともよく覚えていません。3年生でやったナイキカップのことしか覚えていませんね。日本の予選で優勝して、アジア予選はマレーシアで行われました。アジアは韓国以外はあまり強くなかったのですが、その韓国には決勝で負けてしまって。韓国は中学レベルでは体格もあまりよくなくて変わらなかったんですが、向こうは蹴ってきて、こっちはこねくり回してしまって…。自分たちに負けた感じになってしまったんです。でも2位までは本大会に行けたので、なんとかバルセロナに行けました。本大会では予選リーグはアメリカのチームとかと当たって、あっさり勝ったんですが、準々決勝でバルサとやって3-2で負けて、その後順位決定戦でレアルに勝って5位になりました。バルサとの試合が衝撃的でした。1回もボールに触れないくらい強くって。2点取ったのもセットプレーとかで運良くって感じで。ボールポゼッションはバルサが90、ヴェルディが10ってくらいだったんですよ。今思えば、バルサのトップにいるイニエスタとか、トップにあがった選手がいっぱいプレーしていました。負けたのはフィジカルとかではないんです。体格で言えば、バルサの方が小さかったんですよ。これは勝てるな、って思っていたんです。そうしたら、バリバリに回されまくってしまいました。レアル戦はヴェルディの方が調子が良かったのもあるんですが、そんなに強くはありませんでしたね。セットプレーで1-0で勝ちました。とにかくバルサは強烈だったんです。ジュニアユースなのに、ものすごくシステマティックだったですし。ボール回しで全くボールが取れなかったなんて、それまでありませんでしたからね。

日本に帰ったらチームの人に呼ばれて、アトレチコとエスパニョールから話が来ているんだけど…って言われたんです。さすがに驚きましたね。学校や住居は全てバックアップするから、一度見に来てくれって話になったので、ヴェルディの強化部長と二人でスペインに行って、両方見た結果、アトレチコに決めました。クラブの規模が大きかったですし、暖かく迎えてくれたので。報酬はエスパニョールの方が全然良かったんですけどね。そうなんです。プロってほどではありませんが、一応報酬をもらっていたんですね。(スペインではユース年代から若干の報酬が出る)そのため、ビザが労働ビザだったので、許可が下りるまでの3カ月間、試合に出ることはできませんでした。

― 高校生時代(アトレティコ・マドリードユース)
練習は厳しかったです。フィジカルトレーニングもどんどん取り入れているし。僕は中でも飛びぬけて体格が小さくて細かったので、全然ついていけなかったんです。毎日、倒れていましたね。(笑)食事は合っていたので、食べることには問題はありませんでした。中学は日本人学校で、高校からはクラブが経営する現地の学校に行きました。スペイン語も最終的には話せるようになりましたけど、2年くらいまではただ座っているだけでした。何を言っているか、全然わかりませんでした。(笑)夏にスペインに行き、ビザがおりて少し経った11月から試合に出られるようになりました。当初はボールが回ってこなかったりもしましたけど、最初の頃はアトレチコが強すぎて5-0とか10-0で勝っていたような記憶があります。この年代はヨーロッパチャンピオンだったので、ものすごく強かったです。僕も試合に出始めたころはスタメンで出ていました。まあ、だんだんと途中からになってはきましたが。監督はすごい戦術家の監督だったので、戦術練習がものすごくありました。半年は通訳がついていたんですけど、通訳がなくなってからはほとんどわからなくて大変でした。でも、みんな親切でしたからわかるまで教えてくれましたね。
いろいろな出来事があったので、なにを話していいのかはわからないんですけど、一番印象に残っている試合があります。ジプシーの人たちしか住んでいない町に行った時のことです。俺が外国人ということもあって標的にされたんです。ボールを持ったら削られまくり。カニばさみはされるし。ボールを持ったり、スローインするたびに、客席からは襲われそうな勢いでやじられて。年寄りの人たちも「チノ、死ねーっ!」って叫んでいるんです。うわっ、えらいところに来ちゃったなって感じ…。あまりにもプレーと客席が酷い状態だったので、前半で試合が終わるのかも知れないな、って思って、「中止だよね?」って聞いたら「いや、普通のことだ。よくあることだから、言い返したり、やり返したりしないで我慢しないとだめだぞ」って言われて。笑えない状態でした。殺されるんじゃないか、って本気で思いました。それで僕が点を決めて勝ったんですが、試合後には顔面に唾を吐きかけられたんです。それでも「絶対にやり返したり、手をだしたらだめだぞ。本当に殺されちゃうからな!」って言われて。みんなで急いでバスに乗り込んで、命からがら帰りました。

外国人として、2部に行くかトップ契約をしなくてはいけない年齢になって、試合にはそこそこ出ていたんですが、上がれるレベルにはなかったんですね。どちらにも行けなかったんです。技術もフィジカルも違ったんですね。特にフィジカルは大きかったんです。周りはどんどん大きくなって行ったんですが、自分はあまり変わらなかったんですね。技術…という意味では通用する部分もあったんですけど、フィジカル的な要素が加味されてしまうので、技術も及ばないんです。現地で僕のことを面倒を見てくれた人がいて、他のチームも探してくれたので、練習にも参加してみたのですが、それもうまくいかなくて。日本に帰ることには抵抗がなかったので、お世話になったヴェルディに話をしたんです。その時の監督が小見さんで、小さい頃から知ってくれていた人でしたので、1週間練習に参加させてもらいました。その後すぐにトップに入れてくれたので、スムーズに日本に戻って来れることになりました。高校3年生の春のことでした。

スペインに行ったことは良くも悪くも自分の人生に大きく影響を与えました。感受性の強い3年間を一人でスペインで過ごしたという意味は今でも大きい存在です。だから、今でもみんなに比べると「俺ってちょっと変っているんじゃないかな」って自分でも思うところがあるんですよね。

― プロになれた一番のポイントは?
人との巡り合わせなのだと思います。入ったチームが運良く強くかったからナイキカップに行けた。そこでたまたま見てくれた人がいたからスペインに行けた。帰ってきた時に僕をよく知っている小見さんが監督だったからヴェルディに入れた。人との巡り合わせが良かったからだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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