J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

栗澤僚一選手

生年月日:
1982/09/05
身長/体重:
170/64
ポジション:
MF
経歴:
習志野高-流通経済大

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PROFILE
08.4.11 UPDATE

― 小学生時代(柏イーグルス→新松戸SC)
サッカーを始めたのは幼稚園の時です。通っていた幼稚園にサッカーのコーチが来ていたので、遊びの延長で習い始めました。小学校に上がってからは柏イーグルスという、松戸市の隣にある柏市のクラブチームに入りました。理由は幼稚園に来ていたコーチがイーグルスの人だったからです。それで柏まで通って、夜遅くまで練習をしていました。まだ低学年だったので、ただひたすらボールを追いかけるというようなものでしたけれど。でも、やはり遠かったので、通うのに疲れてしまい、4年生から新松戸SCという地元の普通の少年団に移りました。新松戸SCのレベルはあまり高くありませんでしたが、5年生から松戸選抜である松戸FCに選出されたんです。この松戸FCのレベルが高かったんです。僕らの代は船橋や市川が強かったんですが、松戸FCも強くて、一つ上の世代は松戸FCが県大会を勝ち抜いて全国に行ったくらいでした。指導者の先生は気持ちの部分を強く指導する方で、この年代で勝つためのメンタリティを教わりました。この時期にかなり伸びたと思います。精神的な部分を教えてもらったことが、自分にとって大きかったんです。常に楽しかったですし、その楽しさがあったからこそ今があるのかも知れません。

― 中学生時代(新松戸北中学校)
小学校に上がる時にレイソル・ジュニアユースのセレクションを受けましたが、最終選考まで行って見事に落ちました。(笑)新松戸北中は強いとは言えないようなチームでしたね。松戸市の中でベスト4に入るか入らないかぐらいでした。だいいち、先生がグラウンドに来ないんですよ。だからキャプテンがメニューを組んで練習をするんです。3年生の時は僕がキャプテンになったので、僕がメニューを組んでいましたね。個人としては、やはり松戸選抜に入っていたので何度か大会に出ました。県選抜にも入りましたが、どのようなことをしていたか、あまり記憶がありません。思い返すと、中学時代は停滞期でした。中学に指導者がいなかったことが大きかったと思います。やる気はあるのに、なにをやっていいのかわからない。そんな時期でした。ただ、指導者がいないと、みんなは楽しい練習をしたがりますから、ゲーム形式の練習ばかりをしていたので、ゲーム感覚は養えたように思います。

― 高校への進学
千葉県のトレセンで習志野高校に練習試合に行ったんです。その時に、習志野高校の監督に「松戸からも何人か推薦して欲しい」という話があったそうなんです。そこで僕をあわせて三人の選手がセレクションを受け、推薦で習志野高校に入学しました。

― 高校生時代(習志野高校)
入学した時の3年生がすごかったんです。玉田君(名古屋)、吉野君(鳥取)、菅野君(元草津)がいました。練習を見たら「これはすごいな」というぐらいレベルが高いんですよ。みんなロン毛でかっこいいし。しばらくは同じレベルで出来るとは考えてもいませんでした。1年生の頃は1年生チームでいろいろと遠征に行きました。練習自体はそんなにハードではなかったんですが、練習試合で負けて部活らしく五厘刈りにされたりはしましたね。五厘になると直射日光が当たるじゃないですか。夏場だったので、みんな頭皮が焼けて。(笑)ヒリヒリ痛かった記憶があります。それでも1年生のころから少しずつ試合に絡めるようになって、選手権予選に少しだけ出て、全国大会にも行ったんですが1回戦で負けてしまいました。玉田くんたちが卒業した後、2年、3年のインターハイと選手権は全国に行けるようなレベルにはありませんでした。ただ3年の選手権は、市船が前年度優勝校推薦だったので、チャンスだと思って頑張ったんですが、闘莉王(浦和)のいる渋谷幕張に負けて、僕の高校サッカーは終わってしまいました。そういえば闘莉王は昔からあんな感じでしたよ。前半からどんどん攻撃に参加していました。ただ、当時は前半に頑張りすぎて、後半には疲れてしまって消えてしまっていたんですが、今はよく体力が持っていますよね。個人的には3年の時に国体のメンバーに入りました。国体メンバーは前の年に選手権で優勝した市船が中心で、永井(柏)とか本橋(山形)とか中澤(G大阪)がいました。メンバー的にはすごく豪華だったんですけれど、本大会には出られなかったんですよ。というのも、地区予選が行われたのは市船がオランダに遠征して帰国した直後だったんです。それまで市船以外の選手たちで練習をしていてコンビネーションが出来ていたのに、帰国直後でコンディションが悪く2回ぐらいしか合わせられなかった市船中心のチームでやって、群馬などに負けて本戦には行けませんでした。

大学は最初に順大のセレクションを受けました。テストで何点以上取らなくてはいけないという規定の中で、点数がとれなくて落ちてしまいました。3ヶ月くらい直前勉強したんですが、全然ダメでしたね。(笑)それでどこにも行くところがなくなって先生が流通経済大学の中野監督に電話をしてくれたんです。学校を見に行ったら、中野監督が案内をしてくれて。こんなところに大学があるんだ…って感じだったんですが、行くところがなかったので、すぐにその場で流経に行くことを決めてしまいました。それで家に帰ったら、日大から話が来ていたんです。でも、もう流経に行くって言ってしまったので、悩んだんですが断ってしまいました。今考えると、この時、日大を断っておいて良かったと思います。これが一日前だったら、間違いなく日大に行っていたと思います。そうしたら、今の僕はなかったと思います。

― 大学生時代(流通経済大学)
金髪に染めている選手はいるし、最初は「ここでサッカーをやっていけるのかなあ」と思いました。当時は関東大学リーグの下の県リーグでしたし。でも、阿部さん(湘南)や塩田さん(FC東京)などトップチームには良い選手がいたんですよね。まず関東2部にあがろう、と目標を立てて頑張りました。練習は走りもありましたが、あまりやっていなかった戦術的な部分も細かく教えてもらいました。フィジカルの面はそんなに気になりませんでした。僕、筋トレが好きだったんです。(笑)よく「筋トレに行きましょうよ」と先輩を誘っていたりしたぐらいです。チームの練習でも毎週火曜日の午後は筋トレだったので、徐々にパワーもついてきた感じでした。でも、教えてもらうやり方が自分には合っていなかったように感じていたので、悩みながら続けていた感じもありました。1年生の中ごろからトップチームに入り、中野監督が関東大学選抜Bの監督をやっていたので、阿部さんと塩田さんと一緒に関東選抜Bに入れてもらいました。大学選抜同士の大会で準優勝したことが印象に強く残っています。この時の関東大学選抜Aチームはけっこうすごかったですよ。巻さん(千葉)、深井さん(名古屋)、千代反田さん(新潟)とかがいて。でも関東Aは3位で、関東Bが準優勝したんです。これが嬉しかったですね。でも同時期の流経は全然だめでした。駒大と総理大臣杯予選で対戦したんですが、駒大はフィジカルが強い選手が多くて歯が立ちませんでした。2年になって関東2部にあがって、3年になって1年に難波(横浜FC)とか阿部(柏)とかいい選手が入ってきたあたりから、流経は強くなってきました。関東2部優勝は絶対で、総理大臣杯も獲る、というのがチームの目標…というか、使命となっていました。チームとしてかなり成長していて、2年前に駒大とやって通用しなかった僕らではありませんでした。個人としては大学選抜でカタール国際に行きました。ちょっときれいなサッカーをしすぎの部分がありましたが、準決勝でチョジェジンなど現代表を多く揃える韓国と戦ったんです。モニさん(茂庭選手/FC東京)たちが出たアテネ五輪の韓国代表ですね。これが強くて、まったく通用しませんでした。世界を肌で感じたのがこの大会でした。

3年生くらいからFC東京の練習に参加したり、石垣島の合宿に参加させてもらったり、練習試合に出させてもらったりしていたので、4年になってその流れからFC東京のJFA・Jリーグ強化指定選手にしてもらいました。プロと大学は集中力に差がありました。練習から気が抜けないんですよね。大学であれば余裕を持ってできるプレーも、プロだと集中しないと潰されてしまう。でも、自分が通用する部分もあったので、それが自信につながっていました。強化指定期間中のヴェルディ戦直前に誰かがケガをしたんです。僕がベンチ入りして、試合に出ることもできました。そうして夏ぐらいに「来ないか」と話をもらいました。先輩が二人入っていたし、原監督に使ってもらっていたし、みなさんにもお世話になっているし、環境もいいし、明るいし。悩まずに、喜んで話を受けさせてもらいました。

― プロになれた一番のポイントは?
学生時代に自分の所属しているチームで成績をあげたことがなかったり、大学のセレクションに落ちたりしたんですよね。そういうところで挫けずに考え方を変えられたことが大きかったと思います。自分自身がしっかりしていたら何でも出来ると思うんです。何事もあきらめないで、前向きに取り組んできたことが良かったんだと思います。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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