J.LEAGUE PRO-FOOTBALLERS ASSOCIATION-有限責任中間法人 Jリーグ選手協会-

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PROFILE

PROFILE

須藤大輔選手

生年月日:
1977/04/25
身長/体重:
183/72
ポジション:
FW
経歴:
桐光学園高-東海大-水戸ホーリーホック-湘南ベルマーレ-ヴァンフォーレ甲府

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PROFILE
08.7.4 UPDATE

― 小学生時代(中央YMCA)
本格的にサッカーを始めたのは2年生からです。小学校に上がる前から中央YMCAという総合スポーツクラブのスイミングスクールに通っていたのですが、なにかの拍子にクラブでサッカーも教えているということを知ったんです。それまでもボールを蹴って遊ぶことが好きでしたので、サッカーもやってみたいなと思い、中央YMCAのサッカースクールに入りました。コーチの方々は専業コーチではありませんでしたが、みなさん大学時代までサッカーをしていた人たちで、サッカーが大好きな上に技術もかなりあり、楽しさとテクニックをここで教わりました。クラブには1~2年、3~4年、5~6年のカテゴリーがあって年代別で試合に出ていましたが、4年生の頃から一番上の年代の試合に出させてもらえるようになりました。ただチームはとても弱くて、県大会までは進めませんでした。そんな中でも横浜スタジアムで試合をしたことがあって、それが子どもの頃のいい思い出になっています。神奈川県内に他にもいくつかYMCAがあって、各YMCAから上手い選手を集めて選抜チームを作るのですが、そのチームがなかなか強かったんです。地域がまたがっていた選抜チームであるために地域の公式戦には出られないので、特別開催の大会に出場していました。清水カップという清水FCも出ている大会に出て、全国で9位という成績も残しました。

― 中学生時代(横浜栄FC)
知り合いに栄FCから桐蔭学園高校に進学して高校選手権に出場した方がいたんです。僕は小学校の頃から選手権に憧れていたので、栄FCに入ってサッカーをすれば高校選手権に出られるようなチームに行けるのかも知れない、と思って栄FCに入りました。指導者はYKKのOBの方がやっていて、テクニックも教えてもらいましたし、サッカーに対する楽しさも教えてもらいました。栄FCは金沢八景の方にあり、自宅から片道2時間くらいかけて通っていたのですが、楽しかったおかげで苦にはなりませんでした。1年生の時に初めて栄FCはクラブユース選手権の全国大会に出場しました。僕はまったく試合には絡んではいませんでしたが、すごいな、という気持ちでした。2年生の時から試合に絡めるようになって、3年生の時には白馬で行われたクラブユース選手権全国大会で準優勝しました。当初、僕のポジションはディフェンダーだったんです。それが3年生になった時、なにかの試合で突然フォワードのポジションで使ってもらえたんです。その試合で僕は何点か得点を入れたんですね。これからはフォワードでやれる。そう思っていたところ、次の試合からまたディフェンスに戻されたんです。ポジションを聞いてやる気をなくしていたんです。そうしたら監督に呼ばれ「お前、ディフェンス嫌なのか」と聞かれました。「はい。ディフェンダーよりもフォワードをやりたいです」と話したところ、フォワードでチャンスをもらえたんです。その試合でまた得点をあげたので、その後は監督もフォワードに定着させてくれました。個人的には神奈川のクラブチーム選抜に選ばれました。

― 高校への進学
3年生の時に、栄FCの監督に桐蔭と桐光のどっちに行きたいと聞かれたんです。僕は最初から桐蔭に行きたかったので「桐蔭に行きたいです」と話をしたところ「まだあまり名前は売れていないけど、桐光もいいチームだぞ」と話してくれたんです。「僕は桐蔭に憧れて栄FCに入ったので、桐蔭に行きたいんですけど」と更に話したところ「お前の性格から考えると桐光の方が向いていると思うよ」とコーチにもう一度勧められまして。それで桐光の練習に参加したところ、推薦枠に入れてもらえましたので、栄FCでトップを組んでいたもう一人のフォワードと一緒に桐光に進学することを決めました。

― 高校生時代(桐光学園高校)
練習は厳しかったです。栄FCは練習が週3日だったんですが、桐光は毎日練習がありました。また、一番がっかりしたのは、桐光が男子校だったことです(笑)。その上にスポーツクラスだったので、クラスには野球部とか剣道部とか柔道部とか、まさに男臭いのばっかりだったんです(笑)。試合には1年生からフォワードのサブで出場できるようになりました。高校選手権県大会の準決勝で桐蔭に当たったんです。この時の桐蔭のメンバーがすごかったんです。広長さん(元C大阪)、森岡さん(京都)、米山さん(名古屋)がいる強いチームでした。その桐蔭をなんとか破って全国大会に出たんです。1、2回戦は順調に勝ち進み、3回戦で神戸弘陵高校の奥大介さんにミドルシュートを決められて敗れました。僕自身は、県大会ではスーパーサブで出場し、けっこう得点を上げたんですが、本大会ではほんの少ししか出られなかったので、悔しい思いをしました。ただ、県大会での活躍が認められて、1年の終わりに国体の候補選手に選ばれたんです。そこで頑張っていたところ、肝臓の病気になってしまって3ヶ月くらいサッカーが出来なくなってしまったんです。そのために掴めそうだったチームのレギュラーの座も逃してしまって…。2年生の夏までには復帰できたので、インターハイの全国大会には出場して3回戦まで行きましたが、その年の高校選手権の全国大会には出場することが出来ませんでした。3年の自分の代では僕と酒井(町田ゼルビア)が2トップで、鈴木勝ちゃん(鈴木勝大さん/元熊本)がキャプテンになりました。ひとつ下には俊輔(グラスゴー・セルティック)や佐原(FC東京)、二つ下には井手口(元徳島)や宇留野(甲府)がいました。新人戦と関東大会で無失点優勝をし、順調に滑り出したんです。インターハイはシードになってベスト8から始まったのですが、そこでスーパーゴールを2発決められちゃって、まさかの敗退をしてしまいました。大学に進学するためにインターハイで活躍したかったので、これはかなりショックでした。僕は早稲田大学に行きたかったんです。そのためにはインターハイでベスト8以上、成績は平均評定4.2以上が必要でした。僕はスポーツクラスでしたけど頑張って4.2以上の成績をとっていたんです。あとはインターハイで頑張るだけだ。それだけのメンバーもいる。そう思っていたのにダメになってしまって…。でも気持ちを切り替えて、選手権に向けての準備をしました。選手権では、県大会でもケガをしてしまうのですが、なんとかみんなが頑張ってくれて全国大会に出られたんです。初戦の相手は優勝候補の山下(琉球)、小島(岐阜)、古賀(柏)、本山(鹿島)たちがいる東福岡です。僕はその試合の開始後10秒でなんと靭帯を損傷してしまったんです。でも痛いのを我慢して前半は頑張りました。それでヘディングでゴールを入れたはずなんです。でも、それはライン際で相手が跳ね返したという判定になってしまって…。さらには変なところで勝ちゃんがPKをとられてしまって。それで2-1で負けてしまいました。絶対に優勝できたチームだったんですけどね。国体は桐光から僕を含めて5人メンバーが入ったのですが、全国大会の2回戦で負けてしまいました。

大学進学なのですが、行く以上はユニバーシアード日本代表に入りたいと思ったんです。当時、ユニバーシアード日本代表の宇野監督が東海大学の監督をしていたんです。「この監督の下で教わればユニバーシアード日本代表に入れるかも知れない」そう考えて、当時、2部だった東海大学に進学することにしました。ところが、その入試の最中に、東海大学はなんと2部から県リーグ(3部相当)に落ちてしまったんです。えっ! 本当なの!? と、ものすごくショックを受けながら東海大学に進学しました。

― 大学生時代(東海大学)
入学してみると、メンバーには素晴らしい才能を持った選手が多くいました。でも、その才能が埋もれているんです。大学に入るとそれまでなかったいろいろな誘惑があります。その誘惑に勝てないと、どんな才能を持っても埋もれてしまうんです。県リーグに落ちてしまったのはそれが原因なんだろうなあ、と1年生ながらに思っていました。県リーグのレベルは想像以上に低くて、高校でのレベルとの落差が大きすぎたので、かなり悩みました。このまま続けるべきか。やめてしまおうか。すごく迷ったんです。そして1年で昇格できなかったらやめようと決心してリーグ戦を戦っていたところ、入れ替え戦まで行きながら、結局2部に上がれなかったんです。もうだめだ。やめよう。そう思った時に、やめたところでどこにも行くところがないことに改めて気がついたんです。それだったら、自分で必死に練習して、自分が上手くなって、1部に上げてやろう。そう思って、それからは気持ちを入れ替えて、一人で練習に取り組むことにしました。練習場の鍵をもらい、毎日居残りで練習をしていました。ターゲットがあったのでキックの精度を磨いたり、筋トレをしたりして。孤独な練習でしたが、ここで「自分にはサッカーしかない」という気持ちを強く持つことができたんです。またサッカーが好きになりましたし、真剣に取り組むことも出来ました。大きな収穫でした。ただ、一生懸命努力したんですが、結果的には4年の最後で2部に上げて僕の大学サッカーは終わりました。結局、大学の4年間、ずっと県リーグにいました。

4年間、日の目を見ることがなかったので、当然のごとくオファーはまったくありません。なので、自分でセレクション開催の有無を調べて、プロフィールを送り、いろいろなチームのセレクションを受けに行きました。それでも全然相手にされませんでした。試合に20分出ただけで「もう、いいよ」って言われたりして。気持ちも挫けかけていました。東邦チタニウムという会社で、働きながらサッカーをやったらどうか、という話もあって、就職に気持ちがぐらつきました。その結論を出すか出さないかの瀬戸際に、親から「最後までやってみずに、そこであきらめていいの?」と言われたんです。それが響いたんですね。よし、それじゃあ最後までやってみようと思って、水戸と甲府のセレクションを受けたところ、両方とも受かったんです。条件としては変わらなかったのですが、水戸の二宮さんという当時の監督から「お前の力が必要だから、是非うちに来てくれ」と直々に誘われたことが大きなポイントになって、水戸に入団することになりました。

― プロになれた一番のポイントは?
評価されない時でも、腐らずに「プロになりたい」という気持ちを持ち、成功できるという強い信念をずっと持ちえたことが良かったんだと思います。それは今でも支えとなっています。

【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫
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